2017年5月26日金曜日

ダニエルの質問に答える

TASS2015に参加したダニエルから、近く本を出すので、高山建築学校で関わった人にインタビュを申し込む。 と連絡があり、先日蟻鱒鳶ルで幾人かで話し合いました。文字起しして下さる方、全ての記録を送ります。

映像名:シーケンス02-07
限定公開:
参加者:吉江、岡、岡崎、青島、夏堀、高野、松木、瀧本、ナナサン、ペペサン、ご



●吉江さんへの質問
1960年代に西洋の民主的価値観を強要された日本で生まれた舞踏舞踊。土方巽と大野一男が西洋で作った作品の悪いコピーであった現代的なダンススタイルに表現された答えだった。土方を動かす理由は、無意識に直接話すことのできる日本語表現を即興舞踊で取り戻すことだった。このダンスの翻訳は「ダンスのダンス」です。
それは自分自身の中でも彼のまわりでも、人間にとっては未知の領域を指していました。舞踏は、現代人の意識の低下に隠された長い休眠の遺伝力を利用しようとしました。なぜ私たちの闇が逃げるのですか?なぜ民主的な「無価値」の方法を選ぶのですか?今日はなぜ、私たちは原始的かつ現地的なものを手に取ることができず、それを表現できないのですか?
■回答
時間と身體
 私たちは、自分が人であることを忘れてしまいがち!さて、昔、日本の東北の農村では赤子は、いずめと呼ばれる藁で編まれた篭の中で過ごす。木漏れ日に揺られ光の闇で遊ぶ。糞尿もそのまま垂れ流しである。両親は近くの畑で農作業に精を出している。がに股や、猫背の姿は、時間の中で培われた體形である。これが土方の舞踏の原風景である。見過ごされてきた時間の闇が作った世界に向けて、見つめ直す。人として闇を思い出す必要があるという危機感。
 記憶とは何か?忘れるものである。しかし経験していなくても記憶は身體が知っている。デザインの前の話である。大事なことは身體の記憶から学ぶコト。倉田康男は、計画された都市の生み出す身体性の欠如に苦い経験を持っていた。「見失われた身體性の記憶を見つめ直す回路」を作る時間を、高山建築学校は持っている。
 土方巽は、「舞踏とは突っ立った死体である」と言った。この舞踏を建築に置き換えて考えてみる。生きるためには、モダンは欠かせないが、モダンでは表せないものを表す通奏低音が必要だ。そこに生きているというコトを引き継いでいく。何かが必要だ。土方巽は、「この花をどう思う」と言った。「美しい?ばかやろう。熱いだろ、この花は!」観照の仕方、皮膚の穴をほじくられるような感覚。ここで言われるモダンの対になるものは何だろうか。それぞれに模索する所作。これが万人に通用するものになるかどうかの試みに、過去、磯崎新の『間』展があった。
 教育。教わるというコトは飼いならされるコト。生き続ける疑問。経験していない懐かしさを目覚めさせる。埋もれていた記憶に立ち戻るきっかけ、手段。建築と関係なく私という素材とぶつかる。教わったことを忘れてみる。土を忘れている。土の記憶を身體にゆだねる。高山をその機会とする。岡くらいだ。その読み解き方を建築に繋げようとしているのは…。
●岡さんへの質問
教会を終わらせることができないことを後悔する理由はない。私は年を取るが、他の人は私のもとに来るだろう。常に保存されなければならないのは仕事の精神だが、その人生は伝承された世代に依存しなければならない誰が生きているのか、そして化身になっているのか」アントニガウディ 建築家として、我々は現代的なスタイルに達するように、標準的で普遍的な答えを出すよう呼びかけているか、私たちは時代の象徴であると呼んでいますか?時間を建築にとって最も影響力のあるツールと考えることができますか?
■回答
 時間と経済
 サグラダファミリアの建築は、度重なる出来事を越えてきました。最初はガウディの死です。ガウディの死後も現場に携わる者たちは、建築を続けました。しかし第二次世界大戦のなか記録が焼失。それでも建築を続けようとしていると、今度はガウディを愛する世界の名だたる芸術家から、やめろと言われます。そして、今日では3Dプリンターの出現で、建築の時間に大きな変化がもたらされようとしています。
建築は誰のモノかを考えます。日本には、20-30年持つ竹と土と藁で出来た家が沢山ありました。この家は、20-30年サイクルで周囲の環境から素材を得て、必要な時には修繕されていく大きな時間と繋がったモノだった。しかし、現在日本で建てられている住宅の多くは、20-30年しか持たず、かつ住人による補修は困難で、解体後のゴミは山海に帰すことが出来ない。この日本で、200年持つ住宅を作り、未来を考えたい。20-30年スパンでモノを考える貧困を、長い時間に投げかける疑問とする。建築は兵士ではないとと鈴木博之は言った。高環境負荷のモノの過剰な供給を需要する同調圧力によって、建築が経済の奴隷になっている。
芸術のような意識ではなくどうブツをつくるか。装飾には、その現場に立ち会った者の、この建築がどうか長く、普通の幸せを、という願いが刻まれている。人間性。
●ゴヘイへの質問
この本は9月末に行われる予定です。私はあなたの疑問を理解しているので、別の方法で質問をしようとします:
「今日の建築は、最も奇妙で美的な形、つまり一種の虚栄心の間の競争です。これらの「トレンドファサード」、無知の壁をすべて削除し、倫理に復帰できますか?シブミという言葉が私たちに教えているように、シンプルさと複雑さの完璧なバランスを見つけることができますか?
■回答
時間と森羅万象
 作るという人為を考える。そして完璧を考え直す。洒落とは、染めたての布を使うことで、色が落ちたコトを言う。使えば使うほど、分ければ分けるほど価値の増すものがある。価値という方向性を持った概念が生み出される前の土壌に倫理がある。
 施設における完璧は、壊れかけたものへの手の差し伸べ方を知らない。建築なのか、住処は、歪みを持ったアンバランスを取る。人に対するものとして自然を捉えるのではなく、実部と虚部の波の重ね合わせのように溶ける。息をする。匂いを嗅ぐ。声を聞く感覚。  共に時を過ごすコトは、多様な奇跡の発生装置のようだ。誰かが誰かと関わりを持って形を変えていくという不変の変化。砂粒社会と農村を往復運動し、植物の成長と腐朽の時間を想像する。
●瀧本さんへの質問
したがって、我々は、3つの収束ベクトル、トポス、タイプミス、構造物の絶えず進化する相互作用から、構築物が常に存在すると主張するかもしれません。」Kenneth Frampton
この3つの要素によってプロジェクトが作られていますが、私たちはテーマを忘れてしまったようです:日本のミニマリズム、日本の土木文化の息子、懸念の種別、トポロジー、テクトニクスなしで西に入ります。私たちは「根絶した建築」と考えることができますか?祖国なしで描くことはできますか?
■回答
時間と言葉  倉田康男が夢想した建築造形言語は、インターナショナルスタイルに対するバナキュラーなモノであった。造形言語における装飾は、ネガとポジという次元を伴ったものであるが、ネガとポジを漢字で表すと、陰陽という次元を伴わないモノになる。音に依拠したバナキュラーなモノを、私たちは喪失し続けているが、創出もしたい。それは、焚火の後に残るオキビを集め、火を起す所作である。
 最後に、文章での問いに文章で答えるというこの度に機会に、言うべきことを一つ。「言葉で言える言うべきことは既にロックンローラーが言っている。それでは語りつくせないから、私たちは、始まる前の音に耳をすまし建築をするのだ。」
以下質問原文
Yoshie
Butoh dance born in Japan in the 1960's when the country was forced into western democratic values. It was an expressive answer made by Tatsumi Hijikata and Kazuo Ohno to the modern dance style that was a bad copy of the works made in the West. The reasons that move Hijikata was to regain a Japanese form of expression that could speak directly to unconscious, in this with a improvised movement dance. The translation of this dance is "dance of darkness":
it referred to the area of what was unknown to man, either within himself or around him. Butoh tried to tap the long dormant genetic forces that lay hidden in the shrinking consciousness of modern man. Why are escaping by our darkness? Why are choosing the democratic "no value" ways? Why nowdays are we unable to tap our primitive and vernacular and express it?
Keisuke
"There is no reason to regret that I cannot finish the church. I will grow old but others will come after me. What must always be conserved is the spirit of the work, but its life has to depend on the generations it is handed down to and with whom it lives and is incarnated". Antoni Gaudi
As architects are we call to give a standard and universal answers, as the modern style reach, or we are call to be enterpeter of our times? Can we consider time as the most influential tool for architecture?
Gohei
The book will be done in the end of September, I understand your doubts so I will try to put the question in another way:
"Nowdays architecture is a competition between the most strange and aesthetic form, a sort of of vanity fair. Can we delete all these "trend facades",walls of ignorance, and come back to the ethics? Come back to the core of the project. Can we found the peace, the perfect balance between simplicity and complexity, as the word shibumi is teaching us? Less aesthetics more ethics? "
Takimoto
“Thus we may claim that the built invariably comes into existence out of the constantly evolving interplay of three converging vectors, the topos, the typos, and the tectonic.” Kenneth Frampton
The project is made by these 3 factors, but it seems that we forgot theme: japanese minimalism, son of a japanese vernacular culture, enter in West without concern typology, topology and tectonics. Can we think an "eradicate architecture"? Can we draw without homeland?